夏休みの作品の講評会

9月に入って長い夏休みも終わり、セツでは授業が再開されました。

再開して第一回目の授業は、夏休みの課題の講評会です。

僕はこの講評会に、夏休み中に描いた11枚の絵に、6月の風景写生会の後に描いた2枚の絵を加えて、合計で13枚の絵を出すことにしました。

これだけ多いと、どうやって持っていくかも問題になってきます。

まとめて輪ゴムで丸めて持っていくことも考えましたが、それはちょっと乱暴すぎる気がします。

結局、畳んだ大きなダンボールの隙間に挟み、ビニール袋で包んでから紐を掛けて持って行くことにしました。

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さて、夏休み中に課題として出されたノルマは、「3枚以上描くこと」でした。

それだけの枚数は十分にクリアしていました。
しかし、一体どんなことを言われるんだろうと不安になって、前日は非常に憂鬱な気分になっていました。

これだけ気合を入れて描いてきたのに、ボロクソに言われてしまったら、もう立ち直ることなんてできないわ…と思っていたのです。

(実際のところ、その可能性は低いと思っていましたが)

講評会は、風景写生会のときのように、一室のアトリエの壁を取り囲む形で生徒たちの絵を貼り出します。

描いた枚数が多かったので、早めに出かけて場所を確保するつもりでしたが、学校に到着すると既にそこには生徒のMさんという先客がいました。

僕も彼女の横で自分の絵を壁に貼ることにします。

さて、壁に絵を貼るときには一つ注意点があります。
それは「画用紙に穴を開けないようにする」ということです。

そのため、貼るときは画鋲を直接紙の上に止めるのではなく、画用紙のわずかに外側の周辺の四隅を、画鋲の頭で押さえるようにして止めます。

こうすると、画用紙に穴が開かずに済むのですが、その分、壁に深く刺さないといけないので結構な重労働です。

画鋲の止め方
画鋲の止め方

作業の途中で、一枚の壁のパネルが外れてしまうというハプニングがあり、元に戻さないといけませんでした。

終わった後は汗だくです。

しかし、こうやって13枚の僕の絵が壁にずらっと並んでいるのを見ると、なかなか壮観な光景に思えてきます。

僕の絵を全て貼り終えた頃には、生徒たちが続々とアトリエに集まってきました。

我ながらよくこれだけの枚数を描いたなぁ…。

僕はそう思っていたのですが、なんと、群を抜いて160枚描いてきた生徒がいました!
僕にはとても真似できません。

生徒たちが持ってきた数が多く、それらの絵を一度で全て貼ることはできなかったので、二回に分けて貼ることになりました。

彼らの絵はどれも非常に個性的です。
風景画や人物画、イメージで描いた絵などが並んでいました。

一通り生徒たちの絵が貼り終わり、いよいよ講評の時間になりました。

生徒たちはアトリエの中央に集まって座り、講師の話を聞きます。

僕の番になると、講師の女性はどの場所で描いた絵か僕に尋ねた後で、「色が前に比べて良くなった」ということを言ってくれました。

それから、「この中でも、特にこの二枚の絵が良いですね」と棒で指し示しました。

その二枚の絵とは、鶴見線の国道駅で描いた絵と、セツの校舎で行われた自主練習のときに描いた人物水彩の絵です。

国道駅の絵
国道駅の絵
本を読む女性
本を読む女性

講評によると、国道駅の絵はあまりスケッチするような場所ではないのに、ここでわざわざ描いたという視点が面白いそうです。

また、人物水彩の絵は、モデルの顔に独特の表情や面白さがあるのだそうです。
以前に比べて、人物画の印象もずいぶん変わったとか。

とりあえず、ひどいことを言われなかったので、僕は内心でガッツポーズをしました。

しかし同時に、その二枚の絵が選ばれたのには、正直なところびっくりしました。

なぜなら、どちらも僕の中では「いまいちだなぁ」と思っていた絵だったからです。

国道駅の絵は、天井のアーチの形が決まらずに、何度も上から絵の具を重ねていたため、透明感がなくなってしまいました。

また、人物水彩の絵は2時間で完成させなくてはいけなかったため、僕の中では満足していませんでした。

もし時間があれば、もっと丁寧に仕上げたかったのです。

講師はまず、「こっちがいい?」と国道駅の絵を選びましたが、僕が渋った顔をしていると、「じゃ、こちらの絵にします」と、人物水彩の絵に最も良いAの評価を与えてくれました。

(と言っても、セツではA以外の評価はないのですが…)

講評会の様子(画鋲の付け方を間違えた…)
講評会の様子(画鋲の付け方を間違えた…)

Aの評価を受けた絵は、いずれセツのロビーに額に入れて飾られる予定です。

僕はとても嬉しかったのですが、その反面で「どうしてこの絵が?」という、戸惑いを覚えないわけにはいきませんでした。

鹿嶋や白馬に行って、一枚を5~6時間掛けてじっくりと描いた絵もあったのに、そちらの絵については、ほとんど言及されなかったのです。

特に、香取神宮で描いた絵や、白馬の姫川源流で描いた絵は、僕の中ではかなり気に入っていたのですが…。

もっと時間を掛けずに、ぱぱっと描いてもいいのかもしれません。

でも、さっと描いて「はい次!」というのは、僕はあまり好きではありません。

せっかくいい景色が目の前にあるのだから、それと向き合ってじっくりと描きたいのです。

僕が気に入っている絵と、講師が気に入っている絵にずれがあるところが、面白いところでもあるし、悩ましいところでもあります。

これは風景写生会でも感じたことでもあるのですよね…う~ん、デジャヴ。

一応、講師の女性は講評会が終わった後に、「今回は選ばなかったけれど、風景画も良かったですよ」と言ってくれたのですが…。

とはいえ、生徒の間でも結構僕の絵の評判が良くて、嬉しかったです。
ようやく肩の荷が下りたような気分になりました。

Keisuke

人物水彩の自主練習

先日、夜間にセツの校舎を借りて自主練習が行われました。

これは、セツの助手の一人が呼びかけたもので、以前に「生涯学習センター」で行われた時とは、また別の主催者です。

現在セツは夏休みに入っていますが、この時だけは特別にセツが開放されています。

この自主練習は夏休み中に計六回あり、今回は二回目です。

人物デッサンと人物水彩の自主練習がありますが、今回は人物水彩が行われました。

夜間通っている生徒たちや上級生も参加していたので、人数は思ったよりも多かったです。

いつものように、三人のモデルさんがそれぞれのアトリエでポーズをとっていたので、参加者は好きなモデルさんを選んで描きます。

二時間ほどで完成した絵がこちらです。

本を読む女性
本を読む女性

色使いは気に入っていますが、また顔が少し大きくなってしまったかも。
でも、ようやくこの描きかたにも慣れてきたと思います。

Keisuke

人物デッサンの自主練習

先日、人物デッサンの自主練習がありました。

セツは夏休みに入っているので、授業ではないのですが、生徒たちが集まって自主的にデッサン会をしようという企画です。

しばらく描かないと、感覚を忘れてしまいますし。

会場は新宿の「生涯学習館」というところです。
建物内にはいくつかフロアがあり、そのうちの一つを貸し切って行われました。

会場の入り口
会場の入り口

スタートは午後1時からだったのですが、時間までに僕を含めて二人しか集まりませんでした。

会場がわかりにくく、迷ってしまう人が多かったようです。

時間を過ぎるとぼちぼちと人が集まり始めたので、1時半頃からようやくスタートしました。

内容はセツの授業でいつもやっているように、モデルが中央に立ち、その周りをデッサンする人たちが囲んで描くというものでした。

しかし、授業と違う点は、今回はモデルさんを呼んでいないことです。
そのため、参加者たちが順番にモデル役になってポーズを取りました。

僕は特別に何も用意しておらず、普段着のままだったのですが、わざわざこの日のためにスーツを持ってきた人もいました。

何枚か描いているうちに、僕がモデルになる番が回ってきました。

僕は小物が置かれている机から、うちわと麦わら帽子を借りて、部屋の中央にポーズを取りました。

僕が取ったポーズ
僕が取ったポーズ

普段の人物デッサンは10分なのですが、今回はモデルが素人ということで8分に短縮されていました。

それでも、左足に体重を掛けていたので、かなりきつかったです。
終わった後は足がプルプルとしてしまいました。

「モデルさんは、いつもこれだけ辛いことをやっているのか…」と、改めてその大変さが身にしみました。

最終的には、15人ほど集まったでしょうか。

1Q(入学してから半年までの生徒はそう呼ばれています)の生徒も、僕を含めて四人来ていましたが、残りは上級生たちです。

全部で12枚描いたあとは、前面のホワイトボードにみんなのデッサンが貼り出され、一人ずつ感想を言い合う講評会が行われました。

みんなのデッサン
みんなのデッサン

普段は人物デッサンの授業では、生徒同士見せあうことはあるものの、こういった講評会は行われないので新鮮に感じました。

上級生のデッサンを見ると、さすがに描き慣れている印象を受けます。
また、線が柔らかく、鉛筆の強弱や濃淡がはっきりしているデッサンが多いです。

僕は最初から最後まで同じような調子で描いているため、もっと強弱や濃淡をつけてもいいのかもしれない、と思いました。

最後に、一人の上級生から僕がモデルになったときに描かれた絵を貰いました。

「僕は他人からこんな風に見えていたんだ」と、少し気恥ずかしくなりましたが、とても嬉しかったです。

Keisuke

人物水彩であれこれ思うこと

先日、セツで人物水彩の授業がありました。

人物水彩は、これが四回目です。

前回(三回目)のときには、絵の背景を先に塗って上から人物を描いたところ、色が濁ってひどい出来になったので、そのままお蔵入りになってしまいました。

アクリル絵の具のような不透明な絵の具だったら、この描き方でも上手くいったかもしれませんが、水彩絵の具を使って描くのは難しいようです。

そこで、今回は色が濁らないようにするため、ある程度計画性を持って、大まかに人物の輪郭線を描いてから色を塗っていくという手法をとりました。

これだと色と色同士があまり重ならないので、色が濁らずに済みます。

今回は、ベッドに横たわる男性のモデルさんを描いてみました。

このポーズは一見するとリラックスして見えますが、実際には結構首が辛かったようです。

今回描いた人物水彩の絵
今回描いた人物水彩の絵

三時間ほどして完成した絵は、今までの人物水彩の中では最も気に入った出来になりました。

少し頭が大きいかもしれませんが、デッサンはそれほど崩れていないし、背景もある程度は描きこんでいます。

また、色も濁っていないし、なおかつ強い色も乗せることができました。

手ごたえを感じたため、今回は少し自信を持って講評会に望みました。
今回、講評するのは女性職員のMさんです。

「うーん、まだ絵が固いですね。
 見た通りに描くのではなく、もっと崩して描いてもいいですよ」

とのこと。

あぁ…今回は少し自信があったのになぁ…。
僕は残念に感じました。

そして、以前に風景を描いたときにも、同じようなことを言われたのを思い出しました。

結局、ずっと同じ描きかたをしていれば、セツではずっと同じことしか言われないのかもしれません。

それでは、同じところをグルグルと回るだけで、出口は見つからないでしょう。
まるで、迷路に迷い込んでしまった飼育用のねずみのように。

しかし、崩せと言われても、どこをどう崩していいのか見当がつきませんでした。

…どうして見たままを描くのではなく、崩して描く必要があるのだろう?

僕は帰りの電車の中で、夕焼け空を眺めながらぼんやりと考えていました。
(うまくまとまらなかったので、その後もしばらくはこのことが頭から離れませんでした)

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その中で、「そもそも絵を描くとはどういうことだろう?」という原点に立ち返ってみました。

例えば、写真と絵の違いというのは、どこにあるのでしょうか?

写真の場合、何を撮るかは人それぞれですが、同じ構図で撮った写真は全て同じ仕上がりになります。

(もちろんこれは極端な話で、ピントやシャッタースピード・絞りなどの、写真を撮る上での技術を全く無視した場合です)

ですが、絵では同じ構図で描いたとしても、絶対に他人と同じ絵になることはありません。

それは、その人が持っている「フィルタ」を通して世界を見ており、その上で絵を表現しているからです。

写真と絵の違い
写真と絵の違い

例えば、梅雨の天気の場合、「ああ、じめじめして嫌だなぁ…」と考える人もいれば、「綺麗なアジサイが見られてラッキー!」と考える人もいるでしょう。

同じものを見ていても、人によって全く別の見え方や感じ方をすることは多々あります。

それがフィルタと呼ばれているもので(僕が勝手に呼んでいるのですが)、個人個人が生まれながらにしてあらかじめ持っているものです。

そのフィルタがどういう形や色をしているかで、自然と「絵の個性」が出てくるのではないかと考えています。

そして、各々の生徒が持っている独自のフィルタを、セツでは特に大事にするのではないでしょうか。

だから、「もっと崩してもいいよ」という言葉は、言い換えると「もっと自分のフィルタを掛けていいよ」ということだと思います。

僕はまだ、そのフィルタの掛けかたが弱いのかもしれません。

では、もっと強く自分のフィルタを掛けるとしたら、何をアレンジすればよいのでしょうか。

それは大まかに分けて「」と「」とがあると思います。

ただ、僕はあまり「」をいじりたくないのです。

なぜなら、普段の授業で人物デッサンを繰り返し、せっかく上手くなってきたのに、わざわざそれをデフォルメして手放してしまうのが非常に惜しいのですよね…。

また、わざと形を崩して描くと「下手だと言われてしまうかもしれない」という不安感もあります。

講評で言われたことは理解できますし、理屈ではわかっているのですが、なかなかその一歩を踏み出すことはできません。

また、僕はジグソーパズルのように、図形的にきっちりと辻褄が合っているものを「何て美しいのだろう!」と感じて、とても惹きつけられてしまいます。
(とはいえ、僕は文系人間で数学は苦手だったのですが)

ただ、「」に関しては、もう少し自分のフィルタを掛けてもいいのかもしれないと思いました。

確かに僕が昔に描いた作品を見返してみると、結構冒険している感じが伺えますが、最近は少し大人しくなってしまっているのかもしれません。

まだ、あれこれ試行錯誤している段階ですね。
でも、描き続けていれば必ず前には進めると思います。

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う~ん、これで言いたいことがうまく伝わっているでしょうか。

今回は文章を書きながら考えをまとめているので、まだもやもやとした部分が残っていますね。

Keisuke

模写の授業と秘密の部屋

先日(6月23日)は、セツ・モードセミナーの創始者である長沢節(ながさわせつ)先生の命日でした。

学校ではそれに合わせ、節先生が描いた人物デッサンを模写するという授業が行われました。
この授業は年に一度しかない、特別な機会なのだそうです。

当日は二つのアトリエに、ぐるっと部屋を取り囲むように先生のデッサンが貼られていました。
生徒たちはそれを見て、好きな絵を模写していきます。

服を着た人物のデッサンと、裸体のデッサンがほぼ半々くらいの比率で貼られていましたが、僕は裸体のデッサンを中心に模写していきました。
どうしても、まだ裸の絵には苦手意識があるからです。

模写しているときに気付いたことが、二つあります。

一つは、節先生のデッサンは一本一本の線が長く、線のスピード感があるということ。

僕もそれに倣って、その点を意識して描いてみたのですが、なんとまあ難しいことでしょう!
特に一本の長い線を素早く描こうと思っても、なかなか思い通りにいきません。

もう一つは、節先生のデッサンには「遊び」があること。

例えば、先生は手や足の線はきっちり一本一本描かずに(いい意味で)適当に描いていますが、不思議とそれっぽく見えてきます。

しかし、僕がそれを真似しても、みみずが這ったような線にしかなりません。

描いた枚数は明らかに差があるせよ、この違いはどこから生まれるのだろうと思いました。

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また、別の日の授業の合間には、節先生が暮らしていた建物の最上階に案内されました。

ここは普段は誰も立ち入ることができませんが、特別なときだけ助手の人と一緒に立ち入ることができます。

節先生は、ここで寝起きする生活をされていたそうです。
部屋は、ほぼ先生が使っていたままの状態で残されていました。

入って左に入ったところには、天蓋付きの大きなベッドが置かれていました。

ベッドの横にある箪笥の中には、先生の着ていた服が残されており、その前には十足以上の靴も並べられていました。

今はありませんが、かつて壁には数種類の帽子が掛けられており、先生はまず帽子を選んでからその日のコーディネートをしていたそうです。

別の部屋には、フランス語の講座のテキストや辞書などが並べられていました。
助手の人によると、先生は「一生勉強だ」と言っていたそうです。

この部屋を見て、「ああ、先生は本当にここで生活していたんだなぁ」としみじみ思いました。

もう会うことはできませんが、急に先生が身近なものに感じられました。

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先生の部屋を見学した日の授業は、顔や手足のデッサンでした。

手足のデッサンでは、複数人がペアになり、一人がモデルになってポーズをとります。
他の人はその人の手や足をスケッチしました。

僕がスケッチした絵を置いておきます。

手のデッサン
手のデッサン
足のデッサン
足のデッサン

そういえば、あまり裸足の絵は描いたことがなかったことに、改めて気付かされました。

Keisuke