朝5:00過ぎ起床。ダイニングで朝食をとって、6:30出発。まだ辺りは薄暗く、高台から見下ろすムシアの町のオレンジの明かりがとても綺麗だった。けれどしばらく行くと黄色い矢印を見失い、道がわからなくなってしまった。
町の中をうろうろしていると、近くに交番があったので聞いてみることにした。僕が「フィステーラへの道はどこですか?」とスペイン語で聞いてみると、警察官の一人は「突き当りを左に曲がって坂を登り、道なりに進むと海岸沿いの道に出る」と教えてくれた。ちゃんと理解できたわけじゃないけれど、なんとなくは理解できた。
教えてもらった通りに道なりに進むと、海岸沿いのT字路に出た。そこには三方向の矢印が書かれており、左方向には「F」、右方向には「M」、今来た道には「A」の表示があった。「F」がフィステーラ、「M」がムシア、「A」はアルベルゲだろうと見当をつけて、僕は「F」の矢印の方向に進んだ。
海岸沿いの道を進んでいると、だんだん夜が明けてきた。雲が太陽の光に当たって、ピンクやオレンジ色に染まっていくのは見ていて楽しかった。今日もいい天気のようだ。
その後なぜか黄色い矢印が二つに分岐しているところがあった。一方が海岸のほうへ降りる道、もう一方が車道の道だ。僕がそこで迷っていると、後からポルトガル人のカップルが追いついてきたので、彼らと一緒に確認する。どうやらそのまま車道を進むのが正解のようだ。
しばらく歩くと巡礼路は海岸線を離れ、アップダウンのある山道になった。だんだん暑くなってきたのでフリースを脱ぐ。先ほどのポルトガル人のカップルと抜きつ抜かれつ進んだ。牛が道の真ん中を歩いていて、のどかな雰囲気だった。
フィステーラ~ムシア間の分岐点には、先ほどのように矢印が両方向に書かれていることもあり、それぞれFとMの表記があった。サンティアゴのインフォメーションセンターで注意されたのはこのことだったらしい。
それから山道を歩き、いくつかの集落を抜ける。10:00少し前に、昨日教えてもらったリレスという町のアス・エイラスというバルに到着し、そこで休憩することにした。そこでいつものボカディージョ・トルティージャ・パタタを頼む。しばらく待っていると女性の店員が僕のテーブルに来て、「今作っているのであと10分待ってください」とのこと。しかしそれから10分経ってもなかなか出てこなかったので、若干イライラしてきてしまった。
始めに席に着いてから30分ほど経って、ようやく店の奥から料理が運ばれてきた。僕は一言文句を言ってやろうと思ったが、食べてみるとそんな思いは吹き飛んでしまった。なぜならそれは期待していたよりめちゃめちゃ美味しかったからだ!多くの店ではトルティージャは作り置きのことが多いが、今回は出来立てのものを出してくれて、オムレツの中身がとろとろでふわふわだった(語彙力ないなぁ)。今まで食べたトルティージャの中で、一番美味しかったのではないだろうか。
会計のときに、ついでにそこでクレデンシャルにスタンプも押してもらった。バルにあったペン立てには日本語が書かれた布が巻かれていたが、草書体だったので読めなかった。
バルを出た後、先ほど一緒に道を確認したポルトガルのカップルと歩きながらしばし話をする。彼らはポルトガルのトゥイという町からスタートして、ポルトガルの道を歩いてきたらしい。ポルトガルの道も僕が歩いたフランス人の道と同じく、数多くある巡礼路のうちの一つだ(後で調べてみると、トゥイからサンティアゴまでは115km程度のようだ)。僕がサン・ジャン・ピエ・ド・ポーから歩いてきたと言ったら、彼らは僕がずいぶん長い距離を歩いてきたことに対して驚いていた。
しばらく彼らと一緒に歩くと、道が二手に分かれている場所に出た。ちょうどそこに地元のおじさんがいたので、ポルトガルの男性が道を尋ねていた。おじさんによると、一方は山道で、一方は平らな道であるらしい。山道のほうが若干距離が長いようなので、僕たちは平らな道を進むことにした。黄色い矢印も平らな道のほうを指し示していたし。
ちなみに僕もなんとなく彼らのスペイン語の会話は理解できたが、「なんとなくわかった」ということを英語で伝えるのは難しかった。日本語特有の「なんとなく」というあいまいな表現は、英語でどうやって伝えればいいんだろう?結局「a little(少し)」と言ってしまったけれど。
その後はカップルと別れ、また右手に海を見つつ、アップダウンのある道を歩く。一ヶ所きつい登り坂があったが、登りきった先で振り返ると海が一望できて綺麗だった。しばらく歩いていると、向こうから歩いてきた別のカップルにバルの場所を聞かれたので、地図を見せて説明した。
12:00頃に巡礼路沿いにある休憩所で一休みする。ハエが多かったけれど、そこでパンの残りとバナナ3本を食べる。休憩所はバス停のように屋根がつけられており、後ろの壁面には何枚かのポスターが貼られていた。そのうちの一つは葬儀の告知のポスターだった。どうやら最近亡くなった人らしい。食べていると何人かの巡礼者に抜かされたので、若干焦りつつも15分くらい食事をとった。
出発した後は暑くなってきたので上着一枚になる。曲がりくねった急勾配な砂利道を下ると、とたんに目の前が開けた。行く手には赤い屋根の家々が見えて、その向こうは海だった。さらに奥に見える小高い山の向こうが岬で、そのふもとにあるのがフィステーラの町のようだった。あそこがいよいよ最終のゴール地点なのかもしれない。
巡礼路の脇にはロバがつながれていた。そういえば巡礼の序盤の頃にロバで移動していた巡礼者がいたけれど、彼らは無事にサンティアゴまでたどり着くことができたのだろうか。
フィステーラまでもう少しというところで、前を歩いていた男性が巡礼路を示す目印の貝の標識を外れて真っ直ぐ行こうとしていたので、僕は思わず「そっちの道は違いますよ!」と言って彼を呼び止めた。僕が急いで彼に追いつくと、彼はポケットからGPSを取り出して「別に道を間違えたわけじゃないんだ。フィステーラの海岸線の道がとても美しいと聞いていたから、それに沿って歩くことにしたんだ」と教えてくれた。
彼は「君も一緒に来るか?」と言ってくれたけれど、僕はできるだけ巡礼路から外れたくなかったので、彼と別れてそのまま巡礼路の山道を行くことにする。山道から見る景色も海が左手に見下ろせて綺麗だった。
13:40頃にフィステーラの町に入る。町の入り口には十字架があり、そこから海と砂浜を見下ろすことができた。海の色は透き通った濃い青色で、確かに砂浜沿いに来たらとても気持ちよかっただろうなと思う。でも今からそちらに戻る時間はないので先に進むことにした。
僕が受けた町の印象は「明るい港町」だった。港にはボートが停泊しており、おしゃれな建物が港に面して建っていた。フィステーラは「地の果て」という意味なので、もっと荒涼として寂しいところだと思っていたから、こんなに町全体が明るい印象なのは意外だった。でもそれは僕がたまたま天気の良い日に来ることができたからであり、曇った日や雨の日に訪れていたらまた少し印象が違っていたかもしれない。
14:20頃に公営のアルベルゲに到着。受付で先に並んでいたポルトガルのカップルに「感想は?」と聞かれたので、「やったー!」と日本語で答える。それから受付の女性のオスピタレロに「フィステーラに来た」という証明書を発行してもらった。その時に彼女に職業を聞かれたので、僕は「ペインター」と答えたら、「かっこいい!」と言われてしまった。僕は「いや、自分で勝手にそう思っているだけなんだけど」と心の中で思って、少し恥ずかしくなった。
その後別の男性のオスピタレロから宿の説明を受ける。夕日を見に行きたい場合は、正面の門は21:00に閉まってしまうので、それからは裏門から入り、暗証番号を押せば館内に出入りができるのだという。一般的なアルベルゲと違って、ここは特に門限がないようだ。それから二段ベッドが並んでいる寝室に行き、一番奥の上段のベッドを確保。その後シャワーを浴び、洗濯をする。フリースを洗ったので乾燥は乾燥機で行うことにして、そのことをオスピタレロに伝えた。
部屋に戻るとヤンさんも到着していた。彼の使うベッドはたまたま僕の下にあたる場所だった。それから少し話をして、僕のスケッチした絵も見てもらった。彼が携わっていた公園を作る仕事も昔は手描きでイメージした絵を描いていたという。彼は「これだけ描けるのに機械設計の仕事をしていたなんて面白いね」と言っていた。
これは帰国後の話になってしまうが、僕はこのときに言われたヤンさんの言葉がずっと引っかかっていた。「そういえばどうして機械設計の仕事を選んだんだだろう?」とふと考えた。これにはいろいろな経緯があるけれど、ここでは長くなってしまうので書かない。それにまだ自分の気持ちがちゃんと整理されていないからだ。
それから一眠りしようと思ったが、外の話し声がうるさくてなかなか眠れなかった。その後ヤンさんと一緒に町に出かける。宿の近くのインフォメーションセンターに行き、明日のフィステーラからサンティアゴに戻るバスのチケットを購入した。13ユーロで、9:30発のバスだ。
そこにはシートさんとミゲルさんの親子もいて、日没の時間をスタッフに聞いていた。彼らはフィステーラで夕日を見る予定のようだ。僕は彼らに挨拶して、一緒に話を聞くことにした。今は一番日が長い時期なので、日没の時間は22:15~22:30頃になるらしい。日本では信じられないくらいの遅い時間だ。
僕は「日が沈んだ後、暗くなって危なくないですか」と聞いたら、スタッフは「大丈夫だ、周りは明るいから十分歩ける」とのこと。しかし日没の時間が思ったよりも遅いので、どうしようか迷う。翌朝に朝日を見に行ったほうがいいかもしれないと思った。
その後アルベルゲの近くのスーパーで明日の朝食を買う。ついでにお土産屋でバンダナも購入した。青い布に黄色い矢印が描かれた絵柄が印刷されているものだ。その理由は後で。
アルベルゲに戻り、洗濯の乾燥が終わった頃なので衣類を確認してみたらタオルが足りなかった。そのことをオスピタレロに言ったけれど、その後シャワー室を確認したら僕がそこに置き忘れていただけだった。疑ってごめんなさい。
それから18:00頃に早めの夕食をとることにした。いろいろお店があったので迷ったけれど、最終的には港に面した「エル・ガレオン・デ・アナ(アナさんのガレオン船)」という店に立ち寄ることにした。店の外にあった黒板には10ユーロの日替わりメニューを出していることが書かれていた。店内に入ってみると、まだ時間は早いので客は全然いなかったが、太ったオーナーのおばちゃんが出迎えてくれた。彼女にスペイン語で「ここで食べてもいいですか?」と聞くと、彼女は喜んだように「シー(はい)!」と言って、海が見える窓際の席に案内してくれた。
一皿目に出された「ソパ・デ・マリスコス(魚介類のスープ)」は見た目は茶色であまり良くなかったが、食べてみるとカニなどの海産物が中に入っており、とてもおいしかった!逆に二皿目で出された鶏肉のオーブン焼きは油っぽくて胃にもたれた。店のオーナーのおばちゃんがすごくフレンドリーな人で、いちいち感想を聞いてくるので、僕は親指を上げる仕草をしながら「ムイ・ビエン(とてもおいしい)!」を連発していた。
デザートについて聞くと、オーナーのおばちゃんは「私が作ったデザートを出すわ。牛乳・卵・砂糖だけで作ったの。口に合わなかったら変えるけれど、とってもおいしいわ」と言っていた。おばちゃんが話したのはスペイン語だったけれど、なんとなくわかってしまう不思議。それはスペイン語が僕の中である程度身近になってきたからなのかもしれない。
出されたデザートはプリンみたいでとてもおいしかった。おばちゃんに「どう?」と聞かれたので、とってもおいしいということを伝えた。僕は「レチェ(牛乳)、ウエボ(卵)、アスーカル(砂糖)」とメニューを確認して、「トゥ(あなた)?」と聞くと、とても喜んだように「シー!」と言ってくれた。僕はお礼を言って店を出た。
その後やっぱり夕日を見に行こうと思って、一旦アルベルゲに戻り、寝る準備してから灯台に出かける。灯台までは3.5kmあるので、靴はサンダルでなく普通の靴を履くことにした。町の中を歩いているとヤンさんに会った。彼はまだ夕食を食べていないとのことだったので、僕の食べたレストランを紹介しておいた。
途中で韓国人の夫妻とも会った。彼らは「サアグーンで会った」とのことを言っていたので、「???」になってしまったが、実際会ったのはサリアだったような・・・。しかも、もしかしたらムシアに行く途中の道でも会ったかもしれない。わからなくてごめんなさい。
町の中を抜けて、舗装された急な坂道を登る。途中の巡礼者のモニュメントのところでサイクラーの人に写真を撮ってもらった。
20:30頃に岬の灯台に到着。「うおー、やっと着いた!」という気分になった。そこには0.00km地点の石碑があり、ここが本当のゴールだという実感が湧いた。まだ日が高いが、もうすでにたくさんの巡礼者たちがいて、日が沈むのを待っていた。海はムシアとは異なり、波立っておらず静かだった。
しばらく岬をうろうろしていると、トラバデロの町で会った馬で旅行している人と出会った。僕が馬の写真を撮っていると、彼は僕のことを覚えていてくれたようで、「君にはいろんなところで会ったよ」と話してくれた。それから「君も馬と一緒に写真を撮ったらどうだ?」と聞かれたので、僕は彼にカメラを渡して、馬と並んだ写真を撮ってもらった。馬はおとなしく、カメラの前でもじっとしていた。
その後アルスーアの町で一緒にタコ料理をを食べたスペイン人と再会。料理の席では僕の前に座っていて、短髪で刺青を腕に入れていた人だ。僕は彼に対して少し怖い印象を持っていたが、彼はフレンドリーに「アミーゴ(江川さん)はどうしたの?」と聞いてくれた。僕は「もう日本に帰ったよ」と答えた。
その後まだ日没には時間があるので、20:40頃から22:00頃まで、灯台の近くの岩場でスケッチすることにした。
スケッチしていると、犬を連れたおばちゃんが話しかけてくれた。彼女はポルトガル人のマリアさんという名前で、ポルトの町の近くのマノシンノスという町から歩いてきたと言う。彼女は「お土産にあなたの絵を一枚欲しいわ」と言ってくれたけれど、ちょっとそれは無理なので、代わりに彼女の犬の絵をメモ帳に描くことにした。でも実際に描いてみると難しくて、不細工な犬になってしまった。ごめんなさい。それでも彼女は連絡先を教えてくれて、「今度ポルトガルに来たときは泊めてあげる」と言ってくれた。ありがとう!
22:00頃に夕日を見るために場所を探していると、そこにヤンさんがやってきた。彼は夕食が21:00頃になってしまったので、今やってきたところなのだという。彼は「もう帰っちゃったのかと思ったよ」と言ってくれたので、僕は「やっぱり夕日を見ることにしたんだ」と伝えた。僕らは0.00km地点のところでお互いに写真を撮った。
その後「いろんな国からメッセージを収録している」という女性がいたので、ヤンさんと別々に収録をした。僕は「ブエン・カミーノ!イン・ジャパン!」と言った。
その後腰掛けるのにちょうどいい平たい石を見つけたので、そこに座ってヤンさんと一緒に夕日を見る。気づくとたくさんの人たちが夕日を見ようと集まって、みんなで同じ方向を眺めていた。徐々に暮れていく夕日を見て、「ああ、この旅も終わりだなぁ」と思う。ヤンさんは日本語で「きれい・・・」と言っていた。オレンジになった海を船が一隻通るのが見えた。ほとんど雲もなくて、綺麗な夕日を見ることができたのはとてもラッキーだった。
日が沈んだ後、ヤンさんと僕でもう一つのメインイベントを行おうということになった。それはここフィステーラの地で身に着けていたものを燃やすという習慣だ。それによって古い自分を捨て、新しい自分に生まれ変わるのだと言う。
燃やす物はもうすでに決めていた。それはいつもリュックにくくりつけていた水色のバンダナだ。これはマドリッド空港の荷物を受け取るときに目印になると思ってくくりつけていたものだが、なぜかカミーノを歩いている最中でもずっとそのままになっていた。
ヤンさんも同じことを考えていて、彼はタオルや靴下を用意していた。彼はライターを持ってきていたので、借りることにした。ヤンさんと一緒に燃やす場所を探したが、風が強くて、なかなか火がつかない。いろいろ場所を探していると、岩場が一ヶ所窪んでおり、ちょうど風除けになっているところがあった。ためしにそこでバンダナに火をつけてみると、意外と簡単に燃え上がった。
ヤンさんもそこに彼の持ち物である靴下やタオルをを投入。一度火がつくと、あっという間に燃え尽きてしまった。僕は持っていた水をかけ、犠牲となったバンダナに今までありがとうと感謝した。ヤンさんは「これで僕たちは新しく生まれ変わった」と言っていた。僕も生まれ変わることができたのだろうか。
その後、暗くなった夜道を町までヤンさんと一緒に歩いて帰る。もうみんな帰ってしまっていたので、海岸沿いの道は人がまばらだった。道沿いに街灯は置かれていなかったが、満月が出ていたのでそれほど暗くなってはいなかった。満月の光が海に反射してほのかに明るくなっており、まるで月までの光の道ができているようだった。しかしなぜか星は見ることができなかった。
歩きながらヤンさんは「あ、そうそう、君の教えてもらったレストランで食事をしてきたよ。おいしかった、ありがとう」と話してくれた。彼はアメリカ人の人たちと一緒に食事をして、パエリアを食べたそうだ。その時におばちゃんの名前も教えてもらったらしい。「明日はサンティアゴに戻って、夕食はフィナーレとして豪華な食事にするんだ」とのこと。
町の中に戻るとと海鳥の鳴き声が聞こえたが、それはまるで猫が「にゃあにゃあ」と鳴いているようだった。
宿に帰ったのは23:00過ぎ。僕たちは裏門から入り、暗証番号を押して室内に入った。みんなはもう寝ていたので静かにベッドに入った。