6:10起床。ダイニングに行くと、山伏の人たちが朝食をとっていた。
僕もそこで彼らと一緒に朝食をとることにした。彼らは梅干を持ってきていたので、一つ貰った。梅干は疲労回復に良いらしい。そこには初対面の日本人の女性もいた。話を聞くと、彼女は鳥取から来たのだという。彼女は僕たちのことを「ああ、昨日見かけて日本人だと思ってました」とあっさり言っていた。
今日はエステルさんたちと一緒に最後の5kmを歩いて、カテドラルの前の広場の前で一緒に写真を撮ろうということになっていたが、7:30になっても彼女たちの姿が見えないので、僕と江川さんだけで先に出発した。目指すはサンティアゴのカテドラルだ。
広いアルベルゲの敷地内を出て、アスファルトの下り道を進む。歩くにつれてだんだんとサンティアゴの中心部に近づいてきて、車の通りも多くなった。出発前は雨が降っていたけれど、その後は降ったり止んだりだった。電光掲示板には「雨なので運転に注意」という表示が出ていた。江川さんによると、スペイン語で雨は「ジュビア」と言うらしい。また、傘は「パラアグアス」と言うそうだ。雨が降り出すと、黒人たちが露天で傘を売り始めるのをよく見かけたという。
歩いている途中、僕は江川さんにスペインに来てどんなことが変わったか尋ねた。彼は「スペインでは自己主張をしないといけないんです。ただじっと待っているだけでは何も変わらないので」と話してくれた。と言っても彼も精神的に辛くなった時期があり、部屋の中に閉じこもっていたことがあるらしい。部屋の中にいればスペイン語を使わなくてすむと考えて。
逆に江川さんは僕に「カミーノを歩いていて何か変わりましたか?」と聞いてきたので、僕は「歩いている途中で、体も心も強くなった気がします」と伝えた。僕はカミーノを歩いている途中で数々のトラブルに見舞われたけれど、それはかえって僕を精神的に強くしてくれたのかもしれなかった。
サンティアゴの市街地の入り口には、大きな塔のようなモニュメントがあり、過去のローマ教皇たちの銅版画があった。説明書きを見たけれど、江川さんはガリシア語なのでわからないと言っていた。
旧市街地に入った辺りから迷ってしまったので、一軒のパン屋さんに入り、道を尋ねた。女性の店員は丁寧に紙に地図を描いて説明してくれた。「現在地がここで、右に曲がるとカテドラルはあるけれど、一つ目の曲がり角は『ノー』。二つ目も『ノー』。三つ目の曲がり角が『シー(はい)』。」そういうと、彼女は踊るような仕草をしてみせた。どうやら三つ目の曲がり角を曲がった通りは「コンガ通り」と言うらしい。
カテドラルは二つの広場に面しており、西側にあるのがオブラドイロ広場で、東側にあるのがキンターナ広場だ。オブラドイロ広場がカテドラルの正面に当たる。僕たちはキンターナ広場を右手に見ながらコンガ通りの坂を下り、9:00少し前にオブラロイド広場のカテドラルの前に到着。
そこには待ち焦がれた大きなカテドラルが正面に聳え立っていた。僕はそこで「やったー!」と言った。しかしカテドラルは向かって左側の塔が工事中で、足場の鉄骨が組まれて青いシートがかけられており、教会の全体像を拝むことはできなかった。残念。
僕たちはそこでお互いに喜んだ後、巡礼証明書をもらうために巡礼事務所に向かった。しかしそこにはすでに巡礼者たちの長蛇の列ができていて、建物の敷地内をはみ出して、外の道路にまで行列が伸びていた。しかもなかなか前に進まなかった。
待っている途中、江川さんが「地球の歩き方・スペイン」の本を貸してくれたので、暇つぶしにそれを読みながら過ごした。最初のページにはスペインの地図があり、江川さんが旅したところには丸がついていた。最後のほうのページにはスペインの歴史が載っており、スペインの栄光時代とその後の没落の様子は読んでいて非常に面白かった。近代になるとスペイン内戦やフランコ独裁の様子が書かれていた。このあたりは高校生の世界史の授業で習ったけれど、その後すっかり忘れてしまったことを思い出した。フランコ死亡後は国王制が復活し、現在の国王が高齢のために跡継ぎに譲ることを考えているということは、以前江川さんが説明してくれた通りだ。
読んでばかりで飽きてしまった頃に、僕の前に並んでいたおじさんがチョコレートをくれた。
そんなことをしながら徐々に進んで行き、建物の敷地内に入ると、そこにはパネルが貼られ、スペイン語で何か書かれていた。江川さんによると、「君の目標は達成された!」という内容で、その下は「ビエンベニード(ようこそ)!」と、「われわれはあなたを待っていました!」という言葉が書かれているそうだ。
敷地内の一角には、もう使う必要がない杖がたくさん置かれていた。
受付まであともう少しというところで、ラ・ファバで会った韓国のおばさんと再会。彼女は昨日到着したけれど、昨日も長蛇の列で、二時間ほど待ってようやく証明書を受け取ったらしい。アルゼンチンのアドレアさんと途中ではぐれてしまったらしく、「彼女を見なかった?」と聞かれたけれど、僕も見かけることはできなかった。
11:00頃、ようやく職員さんに「入ってくれ」と言われたので、江川さんを置いて僕が先に中に入る。ロビーにはカウンター席が設けられており、数人の職員さんが対応していた。僕はそのうちの一人の女性の職員と向き合う形で座った。彼女に一枚の紙を渡され、「リストに名前、出身地、年齢、職業を書いて、巡礼の動機にチェックを入れてください」と言われたので、その内容をリストに書き込んだ。
そのうちの一つに職業を書く欄があったので、何と書こうか迷ってしまった。さすがに「無職」と書くのはかっこ悪いので、結局「ペインター」と書くことにした。本当はエステルさんに言われたように「アーティスト」にしようとも思ったが、さすがにそう書くのは憚られる気がした。自分が何者か言われたら、多分僕は「エンジニア」ではないと思う。かと言って職業としては「ペインター」でもないのだけれど、自分で勝手にそう思っている分には自由だ。
さて、「巡礼の動機」という欄は少し注意が必要だ。ここには「宗教または精神的なものを求めて」という欄にチェックを入れないと、巡礼証明書ではなく、「到達記念の歓迎書」というのが発行されてしまうからだ。やはり巡礼には精神的な動機が重要になってくるらしい。
僕は全ての項目を埋め、職員に渡した。彼女に僕のクレデンシャルをチェックしてもらって、スタンプを押してもらう。彼女は出発した日付と到着した日付、僕の名前を巡礼証明書に書き、「おめでとう!」と言ってそれを渡してくれた。ちなみに発行は無料だ。
巡礼証明書はそのまま持ち運ぶとすぐしわになってしまうので、施設の中で一緒に売っていた、丸めて入れることができる円筒も買うことにした。円筒は臙脂(えんじ)色で、黄色のホタテ貝のマークがいくつもプリントされていた。その中に巡礼証明書を丸めて入れると、まるで卒業証書を貰ったときのような気分になった。
江川さんも証明書を貰い、円筒の入れ物も買っていた。それから彼は巡礼事務所の窓口で高速バスのチケットを買い求めていた。彼は明日バスで友達の家に行ってから日本に帰るのだそうだ。
その後建物から出ると、行列にエステルさんたちが並んでいるのを見つけた。彼女と一緒に貰った巡礼証明書を手に持って記念撮影をした。その後、ツアーでサンティアゴを訪れている人たちに「クレデンシャルを見せてくれる?」と言われたが、怪しい手口のように感じたのでどうしようか迷っていると、エステルさんは彼女の持っていたクレデンシャルをを広げて彼らに見せていた。先を越されてしまった。
さて、現在11:00を回ったところだ。12:00からカテドラルでミサがあるが、建物の中には大きい荷物を持って入れないので、リュックを近くのコインロッカーに預けるか、宿に置いてこないといけない。巡礼事務所には僕たちが泊まる予定のアルベルゲのポスターが貼られており、それによるとここから歩いて15分と書かれていたので、先にアルベルゲに行ってチェックインし、そこに荷物を置いて、またカテドラルに戻ることにした。
しかしアルベルゲは市街地から少し離れたところにあり、しかもアップダウンがあるので、片道で15分どころか25分くらいかかってしまった。ようやく到着したアルベルゲは「アルベルゲ・セミナリオ・メノール・ラ・アスンシオン」という名前で、とても立派な施設だった。セミナリオというのは「神学校」という意味なので、昔は神学校の寮として使われたのかもしれない。
僕たちは数人いた巡礼者たちの後ろに並び、11:40頃ようやくチェックインできた。15ユーロを支払って部屋の鍵を受け取る。部屋はまだ開いていないので、荷物を置こうと地下のコインロッカーに向かった。しかしロッカーは2ユーロコインしか使えない仕様になっており、あいにく二人ともそれを持っていなかった。そのため結局江川さんがフロントに聞いて両替をしてもらうことになった。
そうこうしているうちに12:00近くになってしまった。アルベルゲを出ると、急に雨脚が強くなっていた。ミサが始まるまで時間が残されていなかったので、僕は江川さんに「走りますか?」と提案し、二人で雨の中をカテドラルまで走ることになった。ようやくサンティアゴまで着いたのに、なぜ最後にこんなにきつい思いをしないといけないのだろうか。
12:00を5分ほど回った頃、ようやくカテドラルの前に到着。入り口で係員に注意されたので、帽子を脱いで教会の中に入った。教会の中は広かったが、多くの巡礼者たちでごった返していた。歩いている人よりもさらに巡礼者の数が多く感じたのは、フランス人の道を歩いていた人たちだけではなく、他の巡礼路を歩いていた人たちも加わっていたからかもしれない。
祭壇の前の一番の特等席には子供たちが体育座りで見学をしていた。もうすでに教会の長椅子は巡礼者で埋まってしまっていたので、僕たちは立ちながら参加することになった。江川さんは柱の横に座ってしまった。やっぱり走るのに疲れたんだろうか。
僕の近くには朝会った3人の山伏たちがおり、その周りには10人くらいの別の山伏の格好をした人たちがいた。彼らは途中で合流したようだ。とりあえず彼らは般若心経を流すこともなかったので一安心する。
到着したときにはもうすでにミサは始まっていたが、まだスタートしたばかりだった。始めにシスターさんによる歌があり、その後司教さんの話になった。話はスペイン語だったので全然わからなかったが、なんとなく「ようこそ」と言っているのはわかった。後で江川さんに聞いたところによると、「この経験はあなたの人生の歴史の1ページになるのです」ということを言っていたらしい。
その後複数の司教さんがいろいろな言葉で挨拶をしていた。そのうちの一つは「チニーズと言っていたから中国語だ」と江川さんが教えてくれた。
それから近くの人たちと握手。後で合流した山伏の人たちとも握手を交わす。その時に一人の女性といろいろ話していると、一番年長者の人に「ミサの最中は私語厳禁!」と注意されてしまった。それから聖職者が丸いパンを配る儀式があった(これをカトリックでは聖体拝領という)。これはクリスチャンでないとパンを受け取ることはできないことになっているが、江川さんは受け取ってしまっていた。そのことを山伏の一人に注意されたので、江川さんはパンを返して聖職者と握手をしていた。
その後ミサのクライマックスに香炉(ボタフメイロ)を振る儀式があった。これは昔、今ほど宿の数が存在せず、シャワーなどの設備もしっかりしていなかった頃に、臭い巡礼者たちの匂いを紛らわせるために始めた儀式だと言われている。日本語のガイドブックには「特別な式典があったり、大きな団体や献金をする人がいたりするときだけに限られる」と書かれてあったので、運良く見ることができて良かった。
パイプオルガンの音楽が一段と盛り上がり、司教さんたちは香炉の準備をする。「振るといってもたいしたことはないのかな」と思っていたら、「これでもか!」というように、高い天井に付くくらいの勢いで思い切り振っていた。まるで遊園地にあるバイキング船のアトラクションを見ているようだった。子供たちは大はしゃぎで、巡礼者たちもその様子を収めようとスマホやカメラで写真や動画を撮っていた。僕もその様子をカメラに収めようと思ったが、ものすごい勢いで目の前を通過していく香炉を撮るのは難しかった。何度か往復すると徐々にその勢いは弱まっていき、最後には司教さんが手で止めていた。終わった後はその様子を見ていた巡礼者の間から自然と拍手が湧き起こった。とても盛り上がった儀式だった。
僕はちょっと感動してしまった。後で聞くと江川さんは泣いてしまったとか。
ミサが終わった後は、一番年長者の山伏に「まだ歩き巡礼は続けるんだろ?」と聞かれた。最初はどういう意味かわからなかったが、彼はフィステーラまで歩くことを言っていたようだ。僕はもちろんそのつもりだった。
それから僕たちはカテドラルを出て、近くのレストランで昼食をとる。僕は一皿料理(鶏肉とサラダ・ポテト)を頼む。江川さんは昼から定食を頼んでいた。そのうちの一皿目の「カルド・ガジェッゴ」というガリシア風のスープがおいしそうだった。少し貰って食べてみると、素朴な味わいだった。
その後もう一度カテドラルに行って写真を撮り、しばらく街の中を散歩した。街にはたくさんの巡礼者たちがいて、とても活気付いていた。また道端ではジャグリングをしている人や、バグパイプを演奏している人がいた。
しかし楽しげな人だけではなく、街の中には紙コップを前においてひざまずき、物乞いをしている若い男性もいた。傘も差さずに雨に打たれている彼の様子は哀れだった。「仕事がないので物乞いをしているんです」と江川さんは教えてくれた。特に2010年のユーロ危機以降、スペインの経済は急速に悪化しており、現在でも若い人の失業率が非常に高いらしい。
その後フィステーラとムシアまでの地図が欲しかったので、インフォメーションセンターに行った。英語で「サンティアゴからフィステーラとムシアまでの地図はありますか?」と聞くと、職員さんは一枚の地図を僕に渡してくれた。それには内容が詳細に書かれており、なおかつ高低差や見所まで載っていたので、とても助かった。職員さんは「フィステーラとムシアの間は両方の向きに矢印があるので注意して」と言ってくれた。これは事前にわかっていたことだが、地図によると歩いてムシアとフィステーラに行くには最低でも4日は必要だ。
また、僕が「フィステーラとムシアに行った後に、バスでサンティアゴまで戻りたいんですけど」と言うと、彼女はそのバスの時刻表も渡してくれた。フィステーラからサンティアゴまでは片道3時間、ムシアからは片道2時間かかるそうだ。フィステーラ発のバスは一日に5便あるが、ムシア発のバスは一日に2便しかなく、しかもそのうち1便はとても時間が早い。僕はこれを見て「やっぱり先にムシアに行ってから、最後にフィステーラかな」という計画を考えた。
江川さんはフィステーラまで時間がかからなければ、バスで今日中に往復しようと思っていたそうが、片道3時間かかるということを聞いてあきらめたようだ。
その後カテドラルの近くにある巡礼博物館に行こうと思ったが、ちょうどシェスタの時間で閉まっていたので、先に一度アルベルゲに戻る。
アルベルゲのロビーにはシャーリーさんがいた。結局僕と彼女とは最後まで同じペースで歩いていたようだ。彼女は「お勧めの料理店があるので、サンティアゴに連泊するならお昼に並ぶといいわ」ということを教えてくれたが、僕はこれからムシアとフィステーラにも行く予定だ、ということを伝えた。でも戻ってきたらそこに行くかもしれない。
それから受付でフィステーラから戻ってきた日の6月11日にも泊まること伝えて、予約を入れておいた。その後地下に向かい、コインロッカーから荷物を取り出し、あてがわれていた部屋に行く。館内はどことなくいい匂いがした。
階段や廊下には熊野古道の写真のパネルが展示されていて、日本語で注釈も書かれていた。日本に帰ってから調べてみると、「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」と、熊野古道を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」は、道の世界遺産として姉妹提携をしているそうだ。熊野古道のパネルが展示されていたのはそういった背景があるからなのかもしれない。
今日は大部屋ではなく久々の個室だ。僕と江川さんは隣同士の部屋だった。自分の部屋に入ろうとするとロビーで貰った鍵をどこにしまったか忘れてしまい、探すことになってしまった。なぜこういう大事なものを適当な場所に入れてしまうんだろう。受付のときにバタバタしていたからだろうか。しばらく探していると、ようやくそれがウエストポーチの中から見つかったので一安心する。部屋の中はとても綺麗で、シャワーやトイレなどはないものの、十分満足だった。
そこで一眠りして、17:30頃にアルベルゲを出てまた江川さんと街の中に出かける。まず先ほどシェスタで閉まっていた巡礼博物館に向かった。
博物館の受付では最初通常料金を支払ったが、巡礼者は割引になることに気づき、そのことを伝えると、受付の女性は本当に申し訳なさそうにしていた。
巡礼博物館はカテドラルのミニチュアや、過去に使われていた楽器、過去と現在の巡礼路の比較をした写真、FPSのようなゲーム(巡礼者がサンティアゴまで旅をする内容)などがあったけれど、たいして面白くなかった。写真の中には司教さんや複数の聖職者たちがボタフメイロを力を合わせて振っている場面があった。その様子を実際に僕の角度からは見ることができなかったので、ここで初めて滑車を使ってみんなで力を合わせて引っ張っているということがわかった。
その後もう一度カテドラルの中に入って、今度はじっくり見てみようということになった。そこでエステルさんたちと再会。彼女たちは長椅子に座っていた。彼女の話によると、19:30からまたミサがあるらしい。お昼にわざわざカテドラルまであわてて走る必要はなかったのかもしれない。
教会の地下に聖ヤコブの遺体を収めた棺があったので見に行ったが、どういうものだったかはあまり印象に残っていない。また教会の中には聖職者たちがブースに並んでいる場所があった。彼らは罪を犯した人の懺悔をそこで聞くらしい。いわば人生相談の役割を果たしているのだろうか。
その後カテドラルの中を探索していると、行列を発見した。聖ヤコブ像の後ろに回りこみ、抱きしめることができるらしい。僕たちも列に並び、聖ヤコブ像の後姿とご対面。「ここに到着することができてありがとうございました」と感謝し、「父親の心臓の手術が上手くいきますように」と祈った(その後夏に無事に手術は成功しました)。その時に写真を撮ろうと思ったら注意された。ごめんなさい。
その後カテドラルを出て、「El sterra(エル・ステーラ)」という店で夕食をとることにした。日替わりメニューは数種類の中から選ぶことができた。一皿目は「エンパナーダ・ガジェッガ(ガリシア風パイ)」を頼んだ。ピザのような具材が中につめられていておいしかったけれど、期待していたほどではなかった。二皿目はメルルーサ(タラの一種)だったが、魚は小さく、後はほとんどジャガイモだった。
デザートは一切れのタルタ・デ・サンティアゴ。これはサンティアゴのタルトと呼ばれているもので、中にアーモンドが入っている日持ちのするお菓子だ。上には粉砂糖がまぶされており、十字の模様にに型抜きがされている。お土産屋さんでもよく見かける、サンティアゴを代表するお菓子の一つだ。しかし全体的にこれだけで10ユーロは少し高い印象を受けた。量も物足りなかった。
カウンターには店員の小さい子供がいた。どうやら彼は店に備え付けられていたスタンプを押すのが気に入ったらしく、紙にひたすらぺたぺたと押していた。
店を出てから、お土産屋さんに立ち寄った。僕はお土産を買うのは一度フィステーラに行って戻った後でもいいかなと思ったが、そこで見かけたペーパーナイフがとても良かったので、買ってしまった。母親はペーパーナイフを集めるのが趣味なので、喜んでくれるかなと思ったからだ。
その後江川さんは友達の家に行くときにお土産が欲しいらしく、朝カテドラルの場所を聞いたパン屋さんでタルタ・デ・サンティアゴを買い求めていた。店員さんは大きいものをそのまま紙に包んでくれたので、江川さんは持ち運びがしにくそうだった。せめて箱に入れるとかしてもらえると良かったのだけど。彼によると10日くらい持つそうなので、帰ってきたら僕も小さいのを買ってみようと思った。
その後宿に戻り、22:00頃就寝。だけど今日のボタフメイロの光景が脳裏に焼きついていて、なかなか寝付けなかった。
カミーノはこれで終わりじゃないぞよ。もうちっとだけ続くんじゃ。