朝6:00少し前に目が覚め、洗面所で顔を洗ったり髭を剃ったりしていると、いきなり大音量で歌が流れ始めた。初めはスピーカーから流れているのだと思ったけれど、「なんだなんだ!?」と驚いて廊下を覗いてみると、そこには赤いジャケットを着た二人のオスピタレロがいた。男性がギターを持って演奏しながら歌っており、その隣で女性が踊っていた。ここのアルベルゲでは6:00になると強制的に起こしにくるらしい。「♪モーニング!モーニング!モーニング!」って、朝から元気だなぁ。
そんなこんなですっかり目が覚めた僕は6:30出発。出発のときも彼らはロビーで「ケ・セラ・セラ」や「レット・イット・ビー」を歌っていた。日本の昔のユースホステルもこんな感じだったのだろうか。
アルベルゲから少し歩いた町の外れの高台に、早朝からオープンしているレストランがあったので、町を出る前にそこで朝食をとることにした。
すでに店内にはたくさんの巡礼者たちが食事をしており、僕もカウンターに腰掛けて朝食が出てくる順番を待った。メニューはトーストとカフェオレ。カフェオレはスペイン語で「カフェ・コン・レチェ」と言う(コンが「一緒に」、レチェが「牛乳」という意味だ)。しかしこれだけでは量が少なく、物足りない印象を受けた。歩き始めたらすぐにまた空腹になってしまうのは予想ができたので、どこかで第二の朝食をとらないと。
レストランを出ると雨が強く降り始めたので、軒下でウインドブレーカーを上下両方とも着込んだ。外は肌寒く、手がかじかむ程だった。「うーん、出たくないなぁ」と思いつつも、雨が弱まる気配がないので出発することにした。お昼の食料を持っていなかったが、まあ途中で何とかなるかな。
今日は20km先のスビリという町を目指す。昨日山登りをした分、今日は全体的に下りの山道だ。足元が滑るので気をつけないといけない。
牧場の点在する田舎道や、川沿いの森の中を歩く。しばらくしたら雨が止んで、雲の合間から日差しが漏れてきた。気温も暖かくなってきたので、だんだん楽しい気持ちになってきた。
途中で集落があったので一軒のパン屋に入り、フランスパンと水を買うことにした。試しにスペイン語で「パン、アグア、ポルファボール(パン、水、お願いします)」と言ったら、女性の店員にちゃんと通じて嬉しかった。知らない場所でも現地の人と言葉が通じるとなんだか楽しい。ちなみにパンはそのままパンと言えば通じるのが面白かった。
集落を出てしばらく歩くとカミーノと交差するわき道があったのでそこに入り、邪魔にならない場所に腰掛けて先ほど買ったパンを食べる。朝食とも昼食ともいえないような時間だ。ジャムも何もないので何の変哲もないパンの味しかしなかったが、焼き立てで結構おいしかった。
休憩後しばらく歩くと、巡礼路の横に日本人の碑があるのを発見する。碑の足元には松ぼっくりの山が築かれていた。このとき僕はカミーノの整備に貢献した偉い人なのかなぁ、と思って写真を撮った。
しかし帰国後に写真を見て取り付けられているプレートを読んでみると、どうやらそういうわけではなく、この場所で亡くなった人であるらしい。原因はわからないが、やっぱり実際にそういうこともありえるんだ、と驚いた。人によってはカミーノは死と隣りあわせなのかもしれない。
それを見ていると巡礼者のおばちゃんに「あなたも日本人なの?」と聞かれたので、そうだと返答したら、おばちゃんは一緒に歩いていた人にそのことを伝えていた。
そこからしばらく行ったところで景色のいい場所があり、そこで一緒になったサイクラーの巡礼者に写真を撮ってもらった。でも撮った写真を見たら20度くらい僕が斜めになってしまっている。んん?と思って確認したら、僕が斜めになった道路に立っていたからだった。そのため道路をまっすぐ取ろうと思うと、必然的に僕が斜めになってしまう。そのおかげでこんなへんてこな写真が撮れたのだった。
時々歩きの巡礼者の中に混じってサイクラーの巡礼者たちも山道を走っていく。しかし足元がところどころぬかるんでいるので、彼らのほとんどは跳ね上げた泥が背中に付いてしまっていた。自転車で颯爽と走っていく姿は見ていてかっこいいし、歩くよりも一日の距離も稼げるけれど、彼らには彼らなりの苦労があるようだった。
その後は急な坂道を下ると、12:30頃に思ったよりも早くスビリの町に着いてしまった。時間的に余裕があったので、この先に行こうかとも思ったけれど、昨日たくさん歩いたし、疲れていたのでここでストップすることにする。
少しお腹が空いていたので、お昼を食べようとバルに入った。ここはパン屋さんもかねているらしく、店内ではショーケースにパンが並べられており、カウンターの上にもいくつか料理が置かれていた。僕はそこで安く売られていたホットドッグを食べた。
その後公営のアルベルゲの向かい、チェックインを済ませる。ここのアルベルゲは平屋建てで、二つの大部屋に二段ベッドが並べられている。ベッドは自由に選べる場合は基本的に部屋の奥の下段から埋まっていくが、まだあまり人がいなかったので、ベッドの下段を確保することが出来た。
シャワーとトイレは玄関を出て少し離れた場所にある。シャワーは男性と女性は別々に分かれていたが、男性用シャワーの部屋の中にはお互い仕切りがなかったため、もし他の人が浴びていればお互いに丸見えになってしまう。しかしこのときは時間が早かったので運良く周りには誰もおらず、一人で浴びることができた。
その後先ほど確保したベッドに寝転んで一休みする。スペインでは昼休みのことを「シエスタ」と言い、昼寝をするのが一般的だ。特に夏場の午後になるとスペインの日差しは非常に強くなるため、外で活動するには暑すぎるのだ。そのため午後3時頃になるとシエスタのためにどこも店が閉まってしまうが、決して彼らは怠けているわけではない。僕もその風習にのっとってシエスタをとることにした。仰向けになって上を眺めていると、上段のベッドの底面の板に巡礼者たちが書いた文章や落書きが目に入ってきた。公共物に落書きをするのはあまり良くないことだけど、今まで多くの巡礼者たちがこのベッドを使っていたんだな、と思った。
一眠りした後、アルベルゲを出て町の中を散歩していると、そこでスーさんに再会した。彼女に日本人の女性がいると言われて、紹介してもらう。日本人の女性はMさんという人たちで、母と娘の親子で来ていた。彼女たちはどちらもカトリック教徒だった。娘さんは「弟が数年前に来てすっごく感激したらしいので、今回二人で来てみたんです」と言っていた。僕は日本人にはじめて会って少し安心した。
彼女たちは町のアルベルゲの場所を知りたいと言っていたので、一緒にインフォメーションセンターに行ったが、この時間はシエスタ中なのか、開いてなかった。彼女たちは町の中を歩いて、もう少し調べてみるそうだ。
僕は二人とそこで別れ、この村の名前の由来になった橋に向かった。
スビリとはバスク語で「橋の村」という意味だ。その名の通り町の入り口には石造りの橋があり、橋の中央の柱を狂犬病にかかった家畜を連れて三度巡回すると、病が治るということから、その橋は「狂犬病の橋」と呼ばれていたらしい。
橋の周辺は緩やかな傾斜の土手になっており、タンポポなどの雑草が天然の芝生のように生えている。僕はその土手に腰掛けてスケッチブックを広げ、橋の絵を描くことにした。いつもスケッチをするときは、まずミリペンで線画を描き、それから透明水彩で色を塗ることにしている。これだと線画に失敗したときに直せないけれど、例えそうなっても色をつけるとそれなりの絵に見えてくるのが不思議だ。
川の水面は光を受けてきらきらと光っていた。水深は浅かったので、数人の巡礼者たちが川の中に入って遊んでいるのが見えた。タンポポの綿毛が舞っていて、天気もぽかぽか暖かくてとてもいい雰囲気だった。さっき寝たのにまた眠くなってしまう。
描いている途中、電車の中で一緒になったダニエルさんがやって来て、「絵を描いている姿を写真に撮って、ブログに載せていい?」と聞かれたので、OKを出した。彼もこの町に泊まるようだ。
ちなみにダニエルさんのブログはこちら(スビリのところに僕も少しだけ出ています)→http://facesofthecamino.com/
スケッチは2時間半ほどかけて完成した。こんなにリラックスして楽しい気持ちで描くことが出来たのは、本当に久しぶりだった。これでまず一枚目だけど、旅行中にあと何枚くらい描けるだろうか。少なくともスケッチブック一冊は埋めたいな。
僕がスケッチしていた近くの土手には若いドイツの女性が座っていて、何かを手帳に書き記していた。僕はスケッチを描き終えると、彼女に話しかけてみた。彼女いわく「私は今、カミーノで自分の感じたことを書いているの」とのこと。僕は「ちょっと見てもいいですか?」と聞いたけれど、「ドイツ語で書いているので見ても読めないわよ」と言っていた。それから「ここであなたが絵を描くのを見ていたけれど、あなたの絵も素敵ね」とほめてもらった。
その後アルベルゲに戻って洗濯をする。とはいえ昨日したばかりだったので、まだその必要はなかったかもしれない。しかしせっかく晴れてきたし、みんながやっていたからだ。ずらりと宿の庭のワイヤーケーブルに並んだ他の人の洗濯物を見ていると、なぜか自分もやらなきゃという気になってしまう。洗濯機は置いてなかったので手洗いだった。洗剤は持ってきていなかったのでボディーソープで代用する。これで本当に汚れが落ちているのだろうか?とやや疑問に思いつつも。
洗濯物を干し終えた後、アルベルゲの庭で一休みする。僕の周りにも同じように巡礼者たちが休憩していて、多くの人は数人のグループを作って話をしていた。しかし僕は話し相手がいなかったので、一人で入り口の階段に座ってぼんやりとしていた。
敷地内の庭にはブレスレッド売りの女の子がいて、近くの巡礼者たちに声をかけていた。彼女は手作りのブレスレッドを一個50セントで販売していた。100セントが1ユーロなので、約70円程度だろうか。その様子を見ていると、巡礼者の中には買っている人もいた。しばらくするとその子は僕の元にも寄ってきて、「ブレスレッドを買わない?」と英語で尋ねてきた。でも僕は腕に何か巻くのがあまり好きではないことと、いくら安くても必要でないものは買いたくなかったため、悪いけれど断ってしまった。
でも彼女がなんだかかわいそうに思えてきたため、逆にこちらから何かあげられないかと思って、以前山下公園でメモ帳にスケッチした巨大な客船の絵を切り取って渡した。彼女は喜んで、「これは日本の船?」と尋ねていた。実際には外国の客船だったけれど、説明するのがいろいろ大変に思えたので、とりあえずそういうことにしておいた。
その後19:00から近くのレストランで食事をとる。レストランは多くの巡礼者が食事をしていたため、スペイン人の初老の男性と相席になった。彼は自分の名前をフアンだと名乗った。最初「ワン」に聞こえたので、「なんだか中国人みたいな名前だなぁ」と思ったら、Juanをスペイン語読みすると「フアン」になるらしい。
彼は「英語は少ししかしゃべれないよ」とのことだったが、僕のメモ帳に絵を描いていろいろコミュニケーションをとるうちに、すっかり意気投合してしまった。
彼は片言の英語で僕に質問をして、それに対して僕がメモ帳に絵を描いて答えた。僕は日本の地図を描いて出身地を伝えたり、魚や味噌汁、白米といった日本食の絵を描いて、日本食が恋しくなってきたことを伝えたりした。また、僕が朝から夜遅くまで会社で働いていて、その横に僕が困ったような顔を書くと、彼は「日本人は働きすぎだよ」と言ってくれた。
また、彼も僕のメモ帳に絵を描いて彼のことを教えてくれた。彼は今一人で歩いているが、友達が別なルートを歩いていて、この先のプエンテ・ラ・レイナの町で合流するらしい。また、彼は「自分の職業はカルピンテーロだったんだ」と言っていた。何のことかと思ったらのこぎりやハンマーの絵を描いてくれたので、「ああ、大工さんか!」と気づいた。英語だとカーペンターのことだ。
レストランのテレビではリーガ・エスパニョーラ(サッカーのスペインリーグ)の試合をやっていた。フアンさんが教えてくれたことによると、赤と白のストライプのユニフォームを着ているのが「アトレティコ(アスレチック)・ビルバオ」というチームで、白が「セビージャ(セビリア)」というチームのようだった。
「僕はビルバオのファンなんだよ」とフアンさん。現在リーグ戦は終盤に入っており、チームの今の順位は4位であるらしい。そのため彼は「このまま行けばチャンピオンズリーグに出られるんだ」と息巻いていた。結局その試合は勝つことが出来たが、話に熱中していたせいで得点シーンを見逃してしまった。
僕はスペインのクラブチームはレアル・マドリードとバルセロナしか知らなかったので、ためしに「リーガ・エスパニョーラ、レアル・マドリード、バルセロナ、クラシコ(伝統的)」と言ったら、彼は親指を下にしてブーブーと言っていた。どうやらその二つのチームは嫌いらしい。日本人の感覚だとアンチ巨人のようなものなのかもしれない。
ちなみに日本に帰ってからビルバオのクラブチームについて調べてみると、プレー可能な選手は全てバスク人限定(もしくは直系の先祖にバスク人がいる場合のみ)という特殊なクラブ方針だということがわかった。フアンさんはバスク地方に住んでいるようではないが、もしかしたら関わりがあるのかもしれない。
バスク地方というのはピレネー山脈の西側に位置し、スペインとフランスにまたがっている地方のことだ。彼らは独特な文化を持ち、使用されている「バスク語」は、系統関係がわかっていない「孤立した言語」として知られている。
スペイン語ができなくても絵で意思疎通ができたのが面白くて、2時間ほど話をしてしまった。もしかしたら絵を描くことは、言葉が分からない人同士にとっては最強のコミュニケーションツールなのかもしれない。僕は別れを惜しみつつも、「アスタ・マニャーナ!(また明日!)」と言って21:00頃に宿に戻る。
22:00頃に就寝。