6:00起床。
しかし同じ部屋になったトーハさんのいびきが気になって、あまり良く眠れなかった。一定のリズムで呼吸しているならともかく、途中で止まっちゃうと気になるなぁ。悪い人ではないのだけど、どうしても本人に対して少し嫌な感情を持ってしまう。と言っても起きたときに僕は「グーテンモルゲン!」と挨拶したけれど。
キッチンで朝食をとり、7:00出発。今日も麦畑や牧草地の中を進む。天気は曇っていて、少し肌寒い。
歩いていると昨日のシートさんとミゲルさんの親子が前方を歩いていた。どうやらこのシートさんのリュック中に石が入っているらしい。なんだか重そうだ。しばらく話した後、自分のほうが歩くのが早いので追い抜く。
牧草地の一角には積みわらが壁のように積んであるところがあった。人の背丈よりも数倍高く、フォークリフトなどの機械を使ってもここまで高くは積めそうにない。いったいどうやって積んだのだろう?まさかクレーンで?僕は少し考えたけれど、結局わからなかった。
そこからしばらく行くとシルエニャの町に着いた。この町は計画的に作られており、町の中には均一化された家やマンションが並んでいて、近くにはゴルフ場などのリゾート施設もある。しかし結局買い手がつかず、半ばゴーストタウンのようになっている。同じような建物が並んでいるのに、人の気配が感じられないのはなんとも不気味だった。
町のバルでトイレを借り、その後小腹が空いたので広場のベンチでパンを食べる。休憩を終えて先へ進もうとしたとき、バルの人に「道が間違っているよ!」と教えられた。巡礼路は町の中心部に入っていくのではなく、少し離れた道を抜けていくらしい。
それを聞いた僕は「わかりにくいよ!」と思ったけれど、来た道を引き返して間違えたポイントまで戻ってみると、そこには大きな黄色い矢印が描かれていて、僕がそれを見逃していただけだった。巡礼者もたくさんそちらに向かって歩いていた。
町の出口のところに看板があり、その裏にひっそりと四国お遍路の広告のシールが貼られていた。思いがけないところで日本語を目にしたので驚いた。どうやらスペインのモリナセカという町と、四国の愛南町と宇多津町は、同じ巡礼仲間として提携をしているらしい。
町を抜けると、麦畑が一面広がっているところに出た。麦畑の中の一本道をひたすら進む。多少アップダウンがあったものの、広々としていて気持ちのいい道だった。
そこから丘を越えると、下り坂の先にサント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダの町が見えてきた。この町は11世紀にサント・ドミンゴという人によって石畳の道(カルサーダ)や橋、救護施設などが整備され、その名がつけられたことに由来する。
町の中でシートさん親子と再会する。彼らはいつの間にか僕の前を歩いていたので、いつ追い抜かれたんだろうと思ったけれど、どうやら僕がシルエニャの町で休憩をしたり道を間違えていたときに、いつの間にか追い抜かれてしまったようだった。
町に着いた時刻は10:30。予定よりも早い時刻だ。バルに立ち寄ってハンバーガーを食べ、観光案内所で町の地図をもらう。この町の中心的存在のカテドラルに寄ろうと思ったが、まだ閉まっていた。
まだ時間は早いので先に進もうかとも思ったが、スケッチするのにいい場所があればここで描きたくなって、町の中をしばらくうろうろする。だが、探しても町の中にあまり落ち着ける場所がなかった。それならやっぱり先に進もうと思い、町の中心部を抜ける。
町の出口にあるオハ川には橋がかかっていた。その橋を見たとたん「あ、これなら描けそう」と思ったので、再度考え直しそこでスケッチをすることにした。僕は川の土手に降りていき、橋を見渡せる芝生の上に腰を下ろしてスケッチブックを広げた。橋の上には巡礼者たちが歩いているのが見えた。
この橋は11世紀にサント・ドミンゴによって造られ、その後何度か架け替えられたものだ。現在架けられているのは三代目で、四角に切ったコンクリートによって作られている。描く前は比較的簡単そうに見えたが、実際描いてみるとすごく難しい!11:30から2時間ほどかけて描いた。色塗りは途中まで。
それから町の中心部に戻り「カサ・デル・サント」というアルベルゲに行ってチェックインをする。このアルベルゲは信徒団によって運営されている施設だ。受付のオスピタレロはチェックインのときに「ありがとう」と日本語で言ってくれた。
ロビーで韓国のキムさん夫妻と再会する。あれ、ログローニョで会ったときにはビルバオに行くといっていたんだけどな。僕とオスピタレロのやり取りを見ていた夫のキムさんは、「韓国語だとカムサハムニダ、中国語だと謝謝・・・」と、勝手に世界の「ありがとう」に対する言葉を披露していた。
それからシャワーを浴び、洗濯をして一眠りする。その後町の散歩に出かけ、パン屋でパンを買う。鶏の形をしたパンを売っていた。
その後アルベルゲの食堂で今日の続きの絵を描く。途中何かの用でスケッチブックを広げたまましばらく席を外していた。食堂に戻ってみると、若い韓国人の人たちが僕のスケッチブックの周りに集まっていた。今までに描いた絵を見せると興味深そうに見てくれた。彼らはおやつを持ってきてくれて、一緒に食べようと言ってくれたが、夕食の時間も近いのでそれほどたくさんは食べなかった。
18:00頃明日の朝食の買出しに出かけ、その後夕食をとるためレストランに立ち寄る。おとといと昨日、二日続けて自炊だったので、今日は外食することにした。
レストランではアンさんという63歳の英国出身のおばあさんと同席になった。彼女は一人で歩いていて、とても元気な人だ。しかし足が痛くなってしまったので、明日は休養し、マッサージを受ける予定だそうだ。彼女の息子さんは英語の教師として大阪で働いていたことがあったらしい。
「いつも家で食事を作っているから、カミーノではレストランで食べることにしているの」とアンさん。僕は「二日前から自炊を始めたけれど、味は最悪だったんです」と伝えた。
アンさんは食べ終わるとバッグから手紙を取り出し、宛名を書き始めた。僕が「息子さんに送るんですか?」と聞いたら、「英国に移民としてきた人が、その後犯罪を行って、刑務所に入ってしまう人がいる。そんな人たち宛てにボランティアで手紙を出しているのよ」と彼女は言っていた。
アンさんの英語はわかりやすく、僕も会話の内容はだいたい理解できた。どうやらアメリカ英語よりもイギリス英語のほうが僕にとっては聞き取りやすいようだ。彼女も僕の言っている内容を理解してくれたようで、「あなたの英語はいいわ!」とほめてくれた。実際には高校生レベルの英語も喋れているか怪しいところだったけど、この程度でも十分通じるのかもしれない。
その後カテドラルのミサに参加することにした。ここの教会はなんと教会の中で鶏を飼っている。これはサント・ドミンゴの伝説によるものだと言う。先ほどパン屋で鶏の形をしたパンが売られていたのもこのためだ。
その伝説は以下の通り。
昔サンティアゴに向かう夫婦と息子がカルサーダに宿泊した。しかし息子は無実の罪を着せられ、絞首刑になってしまう。両親はその後、サンティアゴ巡礼を果たしてカルサーダに戻るが、何と息子は絞首台でまだ生きていた。聖ドミンゴが支えてくれたという。両親はただちに役人に息子を降ろしてくれるように訴えるが、全く信じようとしない。それでも頼む両親に、役人は「それはテーブルの上のニワトリの丸焼きが歌いだすようなものだ」と投げやりに答える。するとその瞬間、そのニワトリは生き返り、高らかに声を上げたのだ。(日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会「聖地サンティアゴ巡礼」より)
鶏はミサが始まる前は「コケコッコー!」と元気で鳴いていたのに、始まるといつの間にか静かになっていたのが印象的だった。
その後アルベルゲに戻り、22:00頃就寝。