朝起きると、外は激しく雨が降っていました。
今日は美瑛に移動する予定でしたが、この雨の中では駅まで歩く気がしません。
今日は休んで、英気を養うのもいいかもしれません。
でも、貴重な時間をダラダラと過ごしていいのでしょうか。
ライダーハウスから見える窓の外の景色を描こうかとも思いましたが、いまいち気分が乗りません。
そんなことを考えていると、徐々に小雨になってきたので、やはり美瑛に行くことにしました。
今日泊まる予定の宿に予約の電話を入れ、荷物をまとめて四日間お世話になった「ふくだめろん」を後にします。
今日は中富良野駅ではなく、西中という駅に向かいました。
こちらのほうが一駅分美瑛寄りで、ライダーハウスからもわずかに近いのです。
ただ、止まらない電車もあるため、注意しないといけません。
西中駅は無人駅で、僕以外には誰もいませんでした。
ホームは吹きさらしになっており、近くに小屋のような待合室が一つあるだけです。
六畳ほどの待合室の中には、椅子に座布団が置かれ、壁にはさまざまなお知らせや時刻表などが貼られていました。
まだ電車が来るまで一時間ほどあります。
僕は待合室を出ると、その前の道路に座り、駅前の踏切をスケッチブックに描き始めました。
絵が描けると、時間を潰すときに重宝します。
線画だけ仕上げると、そろそろ電車の到着時間になっていました。
電車に乗り、美瑛駅で下車します。
駅から二キロほど歩き、今日泊まる予定の「ライダーハウス蜂の宿」に到着しました。
建物は木造の二階建てで、生活感が溢れています。
「すみません。オーナーさんはいらっしゃいますか?」
僕は外の椅子で休んでいた宿泊客に尋ねました。
「今の時間なら、居酒屋にいるよ」
僕はお礼を言って、そちらに向かいました。
このライダーハウスには、古くなった列車を改装した居酒屋が併設されています。
店内に入って声をかけると、オーナーは奥から出てきました。
彼はスキンヘッドの松山千春似の人でした。
電話口で想像していたよりも若く、腰の低い人です。
オーナーは、僕から宿泊費の500円を受け取ると、今日泊まる部屋や、トイレや洗濯機、シャワーの場所などを案内してくれました。
寝室のドアは手作りで、中は薄暗かったです。
僕は部屋に荷物を下ろし、辺りを見回しました。
うーん、今日はここで寝るのか…。
僕は躊躇してしまいました。
建物全体の乱雑さや汚さ、若者たちが集まる独特の雰囲気、万年床のベッド。
そういうものをひっくるめて、この宿は独特の雰囲気を醸し出しています。
人によっては、それが居心地良いのかもしれません。
ですが、僕にとって、なじめそうにもありませんでした。
美瑛にはもう一つ「ライダーハウス丘」という施設もあります。
こちらは駅から遠いですが、10年前に一度だけ泊まったことがあるのです。
ここにとどまるか、ライダーハウス丘に変更するか。
僕は神社でお昼を食べながら、ひたすら考えました。
そして自分の直感を大事にし、やはりライダーハウス丘に変更することにしました。
僕はそのことをオーナーに伝えるため、再度、居酒屋に行きました。
オーナーはこちらに背を向けて、「スプラトゥーン」というゲームをプレイしています。
僕が呼びかけると、彼はゲームの手を止めてこちらを向きました。
「すみません。大変申し上げにくいのですが…」と、僕は切り出しました。
「はい、なんでしょう」
「正直に言いますと、僕にはちょっと宿の雰囲気が合わなくて。それで、別の場所を探そうと思います」
「そうですか。それは大変失礼しました」
オーナーは僕に謝罪すると(本来なら、こちらが謝るべきなのに…)宿泊費の500円を返してくれました。
「本当に申し訳なく感じているんです。オーナーさんも、とてもいい人ですし」
「いえいえ、気にすることはありませんよ」
この勢いだと、最終的にはお互いに土下座しそうな勢いでした。
僕は荷物を担ぐと、蜂の宿を出てライダーハウス丘に向かいました。
美瑛川に架かる橋を渡り、農場が点在する道を歩きます。
昔、自転車で来たときはそれほど遠く感じませんでしたが、今は長い距離に感じます。
宿の電話番号を知らないため、予約は入れていません。
果たして、大丈夫でしょうか。
ようやくライダーハウス丘に到着しました。
大きな畑の真ん中に、一軒だけぽつんと存在しています。
ですが、周囲を見渡してもオーナーは見当たりません。
建物の裏で草刈りをしていた40歳前後の男性に、僕は声をかけました。
「すみません。今日、ここに泊まりたいんですけど…」
「ごめんね。今は、オーナーがいないんだ。ちょっと待って」
彼はスマホを取り出し、オーナーに電話をかけてくれました。
「オーナーも了解してくれたよ。今、宿の説明をするから」
「ありがとうございます!」
彼は木村さんという名前で、僕を一通り案内してくれました。
宿泊費は800円です。
「ここのオーナーは農家を経営しているんだ。私も手伝いとして週四日で働いているよ」
「そうだったんですね」
敷地の中央には、大きな本館があります。
その裏手には大きなポプラの木がそびえ立っていて、その奥に農場が広がっています。
この木を描くのも悪くないと思いました。
本館は小ぶりの体育館ほどの広さでした。
入り口の先は作業小屋で、農耕具やメロンの段ボールなどが、ところ狭しと置かれています。
寝るのはそこから一段上がった小さな居間です。
ここは、昼間は農作業者たちの休憩場所になっているそうです。
台所は作業小屋から扉を一つ挟んだ先にありました。
ただし、洗面台は汚く、いつ掃除したのかわからないような状態でした。
普段、使っている人がいないのでしょうか。
トイレはくみ取り式でした。
ここは下水が繋がっていないらしく、洋式の便器からはきつい匂いがします。
できれば長時間ここを使うことは避けたいですね。
「よかったら、自転車を使う?」と、木村さん。
入り口の前には、カゴの付いた水色のママチャリが置かれていました。
この自転車は住み込みの農作業者用のものですが、普段は彼しか使っていないそうです。
僕はお言葉に甘えて、使わせてもらうことにしました。
木村さんは一通り説明を終えると、また農作業に戻っていきました。
僕は荷物を本館の居間に置き、一息つきます。
壁には宿泊客らが書いたメッセージが残されていました。
辺りを見回すと、農家のせいなのかハエが多く、周囲をぶんぶんと飛び回っています。
天井の横の柱からはハエ取り紙がいくつも吊り下げられています。
そこには、死骸が気持ち悪くなるほどびっしりと付いていました。
部屋の隅には旧式のテレビが置かれていました。
しかし、チューナーの関係なのか、一つのチャンネルしか映りません。
ここは、少なくとも清潔な施設とは言えませんでした。
それでも、ライダーハウス蜂の宿と比べると、僕にとっては快適な場所です。
10年前には、もっと宿泊客が多かったです。
夜はバーベキューをしたのですが、今ではすっかり寂しくなってしまいました。
今のところ泊まるのは僕だけなので、とても静かです。
町から離れているし、今日はゆっくり眠れそうです。
まだ時間が早かったので、僕は宿の外に出て田舎道の風景を描きました。
すると、そこに自転車に乗った真鍋さんが現れました。
先ほど「ふくだめろん」で別れたばかりです。
「あれ、ここに泊まることにしたんですか?」
彼は僕の姿を見るなり、そう尋ねてきました。
「そうなんです。蜂の宿は、どうしても雰囲気が合わなくて」
「私もなんですよ。若い人たちが集まるから、騒がしくてね」
今日、真鍋さんは富良野から一つ峠を越えて来たそうです。
僕はスケッチを中断し、彼に寝泊まりする場所や台所・トイレなどの施設を教えました。
それから二人で自転車で出かけ、セイコーマートで夕食の買い物をしました。
セイコーマートとは、北海道を中心に展開しているコンビニのことです。
商品の新鮮さと安全さ、安さが売りになっています。
宿に戻り、シャワーを浴びて洗濯をします。
それから、夕食のラーメンを作り始めました。
比較的綺麗な鍋を選び、買ってきた袋ラーメンを開けます。
カットされたニラやニンジンなどの野菜を入れて煮込みました。
「私は、いつも餅を持ち歩いてるんですよ。良かったら一つあげます」と、真鍋さん。
僕はその餅もラーメンに入れました。
夕食を終え、僕と真鍋さん、木村さんとでお酒を飲みながら話をしました。
僕はほとんど飲めませんでしたが、良い気分になりました。
それから僕はソファで、真鍋さんはマットレス上に寝袋を敷いて寝ました。